鉄道 ブログ
鉄道の写真集やDVDを出版しているアームSP鉄道グッズ部門のブログです。
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特急かもめ
公式ブログ

特急かもめ

特急「かもめ」といえば、戦前から走り続けている名門列車である。
文筆家としては珍しく乗り物に大変造詣が深い阿川浩之さんも「かもめ」に関するエッセイを残されている。
それを読ませていただいたとき驚いた。
なぜなら、作家になるような人は科学技術の集大成である乗り物などには全く興味がなく
周りに好きだという人がいると子ども扱いする人種だと思い込んでいたからだ。
阿川さんの「かもめ」は戦後博多-京都を走った「山陽特急のSLかもめ」で
うらやましい事に初日に広島から大阪まで乗車されている。
阿川さんは牽引機はC59で彼はC62でないことが少し残念なようではあるが、瀬の八越えに
備えてD52が後補機として広島で連結され発車するところなどは、まさに心ウキウキが伝わってくる弾むような筆致で鉄道ファンの面目躍如といったところ•••。
まるでj私もこの列車に乗り後補機の煙室扉の前にいるような気分になってくる。
さらにそれまでの急行筑紫などと比べると加速が良いなどと試乗記にふさわしい感想を
述べた後、せっかく特ロ(特別2等車)に乗っているにもかかわらず
わざわざ最後尾に行き後押しのD52の奮闘ぶりを見学し事細かに描いている。
さすがに文章を書くのが本業の作家さんだけに鉄道雑誌などとは一桁も二桁も違う表現力で
私などが乗った事が無いSL特急「かもめ」の奮闘が目に浮かぶようだった。
こんなものを中学時代に読んだものだから「かもめ」もあこがれの特急の一つになった。
「いつの日か『かもめ』乗って瀬の八越えを体験してやる!」
これが実現したのは1970年の夏だ。東京へ遊びに行った帰りに京都の友達と万国博へ
行きあくる日の朝8時京都駅発の「かもめ」に乗った。
瀬の八超えを体感するためには本来は上りでなくてはならないのはご存知の通りだが仕方がない。
国鉄の車両の中で最も美しい(と私が信じている)82系気動車の12両編成に乗れただけでも
大満足である。
日本の高度成長はまさにピークに達しようとしている頃で車内は活気に満ちていた。
心地良いディーゼルエンジンの音とわずかな振動が気動車の魅力で私は電車特急よりも
こちらの方が好きだ。

列車は京都、大阪、三宮、姫路、岡山と山陽路を軽快にとばす。岡山を出たところで
早めの昼食にしようと食堂車に向かった。満席に近かったが相席ながら何とか座る事が
出来た。しかし先客はなんと初老のアメリカのおばさんたち3人である。
初めての日本旅行でかなりハイになっており、サントリーのミニチュアボトルを次々に
空けていた。
だいたいにおいて英語圏の人間は世界中どこに行っても言葉が通じると信じているから
始末が悪い。このオバサマたちも早口の英語で色んな事を話しかけてくる。
やれ「何を食べるのか?」に始まり「何処までいくのか?」、
「自分たちは広島まで行くがどんな所だ?」などとブローニングの12.7ミリ機銃で
撃たれているような気分になった。
私は独りでアメリカに行っても物を買う事は出来る、乗り物に乗る事は出来るレベルの
英語力だからだんだんイライラしてきた。
「私はトンカツを食べる」と返事をすると「それはどのような食べ物か?」と返ってくる。
「ポークミートをカツレツにしたものだ」と答えると「それは身体にあまりよくない」と言う。
カバの様な体型の「あんたには言われたくないわい」と思ったが黙っていた。
ところが食べ終わっても放してくれない。「この車両は小さい」だの
「アメリカの大陸横断鉄道に乗って食べたステーキは美味しかった」など延々と話しかけてくる。
結局彼女たちは広島着の寸前まで飲んだり食べたりしゃべったりで、解放されたのが広島に到着する
(時刻表上では13:00)の5分前だった。
私は自分の席に戻ったが何を食べたのか解らないような気分でお腹がまたすいてきた。
仕方が無いから車内販売で弁当を買って2度目の昼食を食べた。
それ以来82系を見るたびにアメリカ人のおばちゃんたちを思い出していたが今では見る事が叶わない。
あのスマートなスタイルを女の子に例えるならば美人というよりちょっと小柄でキュートな女の子である。
私の同級生にもそんな子がいたが、なにをやってもかわいらしく群を抜いた美人よりも私は好きだった。
私が82系を好んだのは女の子の好みと相通じるものをあのデザインに感じていたからだろう。
しかしその反面あれが12両繋がると大変な迫力で迫ってくる。
また車両としての実力も相当なもので、乗車した3D「かもめ」は朝8時に発車して終着の
長崎は19:48分、ほぼ12時間走り続けるのだから大したものである。
肝心の瀬の八だがオバチャンたちのおかげで今となっては何も覚えていない。


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急行きりしま
急行きりしま
美しい響きを持つ名前である。
鹿児島県と宮崎県の境に位置するこの山は天孫降臨の地としても知られ、旧帝国海軍の高速戦艦の名前でもあった。日本人には思い入れの深い名前と言えるだろう。

一方鉄路における「きりしま」は戦後のどさくさが一段落した昭和25年10月1日に生まれている。これは私が生まれた年なので何となく因縁めいたものを感じている。
誕生当時は、イネ・ロネ各1両、ロ座4両、ハ座6両に食堂車も連結するという急行とはいえ日本を代表する優等列車であった。最もこの時代は、全国の幹線を見渡しても特急などはほとんど無くトレインネームの無い準急や急行がちらほらと走っているに過ぎなかった。
そんな時代だから鹿児島(西鹿児島では無い)・東京という長距離急行「きりしま」のデビューは話題を独占したらしい。

私がこの列車をはっきり意識したのは昭和37~8年の頃ですでにブルートレインが花盛り、したがって「きりしま」の編成も庶民的となり、ハネ2両、ロ座2両、ハ座8両、それに食堂車という状態だった。しかし郵便車も連結されていたから全15両!長大編成の魅力を振りまきながら走っていた。
意識をするきっかけは友人の悪ガキどもと登校する途中、毎朝鹿児島本線で出会っていたからでこの時ばかりは皆と離れ、ヨーロッパ的な10系寝台やスロ54、オシ17などに見入っていた。
口が悪い鉄道ファンはこのような旧客編成を雑型と呼んでいるようだが、私には統制がとれた20系の寝台特急よりも魅力があった。
少年の頃の記憶は薄れない。
以来「いつか乗ってやる!」と思い続けてそれが実現したのは5~6年後の18歳の時だ。
叔母がいる熱海でアルバイトし、その帰りに熱海~博多間に乗車した。2カ月近く滞在した熱海を離れるのは少し悲しかったが、「きりしま」が入線すると私の眼は輝いた(と思う!)。
乗り込んだのはナハ10、ステップから社内に入ると「何たる幸運!」東京の女子高の修学旅行車両だった。
本来なら貸切のはずだが何故か自由席、空席にはちらほら一般の乗客もいた。
窓際の空いた席に座ると前は女子高生!!!
いつもなら早速窓から顔を出し先頭で牽引するEF58の姿に見とれるのだがこの日ばかりはそれどころじゃない!
彼女たちが下車する大阪までそれは楽しい時間を過ごした。
前席にいた2人の女の子の写真を撮影し今も大切に持っている。
しかし残念ながら彼女たちの名前は忘れてしまった。このお二人がお元気ならばもう60前後の…になっているはずだ。

大阪で彼女たちが下車した後乗り込んできたのはいい年をした無愛想な男性だった。
天国から地獄へ落ちた気分で長い夜が始まった。
開け放した窓(当時旧型客車の2等座席車にはクーラーは無かった)から吹き込む夜風も侘びしく、先頭の機関車のホイッスルを唯一のなぐさめに垂直に近い背もたれ、硬い座席で走る我慢会のような一夜をひたすら耐えた。いくら汽車が好きでもあの座席はひどかった。
このような思い出があるからこそ今でも「きりしま」という名前には特別な感情が湧く。
581系特急になった時は心底がっかりし、さらに日豊本線のローカル特急で走っている姿には違和感を覚えるが、レールの上に「きりしま」の名前が今もある事に満足しなければ贅沢というものだろう。
長大編成の客車急行の思い出に乾杯!

[ソニックの決定版DVD近日発売!]
以前からご要望が多かったJR九州の在来線看板列車の「ソニック」のプロモーションビデオの発売を開始します。
前回の「485よ永遠なれ」は、廃止された列車だということで記録性に重きを置き更に列車のカッコよさをどのように表現するか?という点で悩んだ結果あのようなものになりましたが、「ソニック」は現在走行している列車でビデオ撮影しようと思えば誰でもできるため『どのように編集するか、より楽しいものにしたい』という点でたいへん悩みました。
映像は、例のごとく加地さんや宇都宮さん、そして私が取りためていたものがある程度は有りましたが、しかし下手に編集すると平凡な何処にでもあるDVDになってしまいます。
そこで今回は制作コンセプトを次のように定めました。

① 振り子特急である883系の最大の特徴はスピード、そこでスピード感を満喫できるようショートカットで映像をつなぎ迫力一杯の映像にする。
② このスピード感を楽しむ為に音楽に力を入れて、音楽と共に楽しめる全く新しいタイプのものにしたい。というものでした。

① については、私たちアームSPは、加地さんと宇都宮さんという九州を代表する鉄道カメラマンのお二人が全面的に支援して下さっており、最高の写真とムービーが手に入るという点で鉄道映像制作会社としては大変恵まれた環境にいます。さらに九州鉄道記念館のご協力も有り貴重な写真なども使わせて頂いており内容を更に充実する事も可能です。このDVDでは、485系とデビューしたてのソニックの離合シーンや、電化前の日豊本線で、「DF50牽引の富士」と「82系のかもめ」が離合する姿などが加地さんの写真やムービーで収録されています。
また宇都宮さんからは、JR九州のポスターなどで使われた美しい写真を含め、列車がいきいきと迫力一杯に走っている写真を提供していただきました。
さらに、鉄道記念館からは旧型客車で運転をしていた「準急ゆのか」の写真(これは大変貴重なもの)をお借りすることができました。

② については、幸いなことに「浦 譲二」さんと「末広尚義」さんという福岡で人気のシンガーソングライターお二人の協力を得る事が出来、ロックやポップスミューックをバックにソニックが快走するという、狙いどうりの素晴らしいプロモーションDVDに仕上がったと自負しています。

このような鉄道DVDは今まで私は見たことがなく、鉄道ビデオの世界にあたらしい旋風
を巻き起こすものと期待しています。
皆様方もどうかご期待ください。近日中に予告編をこのサイト上でオンエアー致します。


アームSP鉄道部門担当
津崎謙太郎


我が青春の列車たち はやとも&銀河
時間が経つのは早い、つい昨日のように思われるのだがもう40年以上の月日が過ぎ去った。
当時まだ十代だった私にはどうしても乗ってみたいいくつかの列車があった。
今回はその中から1968年夏の「はやとも」と「銀河」で上京した思い出話につきあってください。

「はやとも」の歴史は古い。
ルーツをたどってゆくと1946年1月31日から走り始めた1005レ・1006レ(東京-門司)にたどり着く。この列車は敗戦直後の占領軍専用列車で「アライド リミテッド」という名前の特別列車である。
この当時連合軍専用列車はこれ以外にも「ヤンキー リミテッド」、「デキシー リミテッド」などいくつかあった。
これらの列車は全国から戦災を免れた1等、2等の寝台・座席車と食堂車を集め、おんぼろの車両にすし詰めにされたうえに鈍行で旅をしていた日本人の前を超豪華編成の列車がこれ見よがしに走っていたという。
この記憶は私たち日本人にとっては決して気持ちの良い話ではない。

その後この専用列車に日本人も乗れるようになり特殊急行と呼ばれるようになる。
しかし占領して思い上がった外国人ばかりの列車に乗った日本人はどんな気持ちで旅をしていたのか?想いを馳せると情けなくなってくる。(負ける戦争などするものではない)
やがてこの列車は1954年に、列車番号はそのままで普通急行「早鞆」と命名された。
ここで初めて「はやとも」という名前が出てくる。
しかしこうなっても占領軍の利用が多かったのかロ座2両、ロネ4両、イネ2両、食堂車という超豪華編成で軍港がある呉線を経由しやはり軍港だった佐世保まで走っている。

この外人のための「早鞆」は1961年に廃止され、5年後ハ座中心の客車急行として大阪-博多間に復活する。しかしこの列車の寿命もわずかで、40.10のダイヤ改正で475系電車急行として装いも新たに再デビューする。
私が乗ったのはこのEC急行で1967年のことだ。
475系の急行電車は私たち世代にとっては懐かしい車両である。
主要幹線はブルートレイン、481系、82系などの全盛期で、その中で475系のピンクとクリーム色に塗り分けられた車体が走る様は新しい鉄道の時代を感じさせてくれるものがあった。
事実、客車急行と比べると、博多-大阪間で停車駅数ははるかに多いのに約二時間所要時間は短く、さらに博多-名古屋のロングラン運転、食堂車の代わりに連結されていた近代的なビュッフェなど若かった私には481系よりも魅力的に見えたものだ。
この頃の私は「はやとも」のルーツが「アライド リミテッド」だったなど知る由もなく475系が好きだったことと、昼間の山陽本線が見たかっただけである。

この「はやとも」に始発駅の博多で乗り込んだのは夏休みの朝7時、まず目指すは大阪である。
それまでにも母親の里である東京へは何度か言ってはいたがほとんどが夜行で昼間山陽本線を走るのは初めて、窓際に陣取り窓を開け(当時普通車には冷房がなかった)瀬ノ八の急カーブを眺めると補機も無く涼しい顔をして登るスマートな先頭車の姿が見えた。忘れられない私だけの鉄道名シーンだ。
車窓からは、各機関区にたむろする蒸気機関車(主に入れ替え機)や、交流の九州では見ることができない車両たち、緑一面の田んぼ、陽光に輝く瀬戸内海や須磨の海、そして行き違う481系の山陽・九州特急などを満喫して17:10分「銀河」に乗り換えるため大阪で降りた。
「はやとも」の車内で約10時間、今考えれば座り心地の悪いボックスシートで空調のない室内、沢山の乗客など悪条件ばかりだがそこには旅する楽しさが溢れていたように思う。
窓から吹き込む風の香り、停車駅で買う駅弁の美味しさ、前に座ったお婆ちゃんなどが「何処まで行くの?」と話しかけてくれ、冷凍ミカンをもらったり同年輩の女の子と話が弾んだことなど現在の列車とはまるで違う雰囲気がそこにあった。
このような出会いが鉄道旅行の魅力の一つであった。心優しき日本人が沢山いたあの時代と比べると今の旅はなんとつまらないものか…。

さて「銀河」である。これに乗りたかったのは先ずそのトレインネームの響きが良い事だった。それと特急「つばめ」などで活躍した往年の名客車、スハ44で一夜を過ごしたいという願いもあった。
「はやとも」の到着から22:35分の銀河まで大阪駅のプラットホームで時間をつぶしたが九州・山陽方面からやってくる、あるいは発車してゆく優等列車のおかげで飽きることは無い。
特にDC特急の「白鳥」、下関行きの寝台急行「音戸」、宇野行きの「鷲羽」、広島から東京まで行く「安芸」(この列車はオール10系寝台車で大好きな列車だった)、まだ急行だった「日本海」(もちろん旧客)、クロ151が編成に組み込まれた「しおじ」や「しおかぜ」など息つく暇がないほど…。
こうして大満足のひと時をすごし待望の「銀河・スハ44」である。
この車両は客車時代の「つばめ・はと」に使用された栄光の3等車で、新造時は一方向固定のクロスシート(私が乗車した時は転換クロスシートに換装されていたと思う)で他に類を見ない豪華な3等車とまで言われたものだ。
しかしスハ44に乗り込むとあこがれていた客車「つばめ」を彷彿とさせる内装はかなりくたびれ室内灯も薄暗かったような記憶がある。それでも乗ることがついに叶わなかった列車、「旧客つばめ」がオーバーラップしワクワクしたことを覚えている。
列車が発車するとロマンスシート(当時はこの手の座席をこう呼んでいた)に一人ポツンと座りどこかわびしい夜行列車の旅を味わった。モーターやエンジンがついてない客車特有の単調なジョイント音、クロスシートとはいうものの長時間座ると腰が痛くなってくる座席、今考えれば決して楽な旅ではないが、これがあの「つばめ」だったという気分が寝苦しい夜の支えとなった。
忘れられない青春の思い出列車である。

今の時代に昔の「旅」の再現を望むのは無理なことだしあの居住性の悪さを歓迎する人はいない。
しかしあの時代のゆったりとした旅の気分(今は旅に常に緊張感が伴っているように思う、特に新幹線)を再現できないだろうか?
鉄道会社の課題の一つのように思われる。
特に新幹線は今後格安航空会社との競争にさらされることになる。
より早く、より安全に、より豪華にだけではない「心」(乗客がお互いに話をしたくなるような)を大切にした汽車旅のあり方が問われても良いように思われる。
競争に耐えるためのささやかな手法の一つだと思うのだがどうだろう?

新幹線は素晴らしい、しかし全国新幹線網は必要だろうか?
前からどうしても欲しいと思っていた戦後の時刻表が3つあった。
まず昭和31年の東海道本線全線電化に伴うダイヤ改正時のもの。次に昭和33年の「こだま」がデビューし、「あさかぜ」がブルトレ化された時のもの。(これはまだ手にしていない)
そして次が、昭和39年の東海道新幹線開業直前のものである。今回その中の一つ、開業前の39年6月号が大阪の友人の好意で手に入った。
早速東海道本線のページを開くと、まさに百花繚乱華やかなものである。
特急列車が定期・不定期併せて14本、急行列車がやはり定期・不定期併せると31本、準急が21本走っている。合計すると66本で24時間で割ると1時間に2.75本となり上下線ではこの倍になるから5.5本でほぼ10分に1本の割合となる。
もちろんその中には東京・名古屋間のものや名古屋始発で西に向かう列車もふくまれているから実際にはこれより少ないがそれにしてもめまぐるしく走っていたものだ。
使われていた車両もボンネットタイプの電車特急、ブルートレイン20系、旧型客車の長大な急行列車、電車急行や準急で当時の鉄道ファンは幸せの絶頂にあった。
友人である九州鉄道記念館の宇都宮照信氏が良く言っているが「東海道新幹線開業前が一番良かった」という言葉には「正に同感」してしまう。
それが4カ月後の10月1日の時刻表(新幹線が開業した)では、東京駅発着の特急列車はブルートレインを除いて全滅する。
伝統の「つばめ・はと」、ビジネス特急として一世を風靡した「こだま」他にも「富士・ひびき・おおとり」など名前を聞いただけでもワクワクする列車たちがその姿を消した。
これには一抹のさみしさを覚えたものだが、長距離の客車急行はブルートレインと共に生き残り活躍を続けたことは嬉しい限りであった。
しかしこのダイヤ改正で西日本の鉄道ファンが大きな恩恵を受けたのだからあまり文句は言えない。
つまり「つばめ・はと」が山陽・九州特急としてデビューし(関東の人はそれを都落ちと言うが、こんなことを言うのは東京人の思い上がりだと思う)さらに「富士」がブルトレで同じく再デビューを果たしその他にも新幹線接続列車が多数生まれている。
東海道新幹線開業のおかげで西日本の鉄路はこれまでにない活況を呈した。

もはや「戦後ではない」と言われた昭和31年のダイヤ改正でやっと戦前並のダイヤに戻った国鉄が、その後わずか8年後には新幹線を走らせ山陽・九州線に大量の優等列車を運行したということは素晴らしい事である。
それ故にこの時代の時刻表はまさに宝物、生涯を通じた愛読書となり得る。

時刻表はさておき昨年の3月12日、九州新幹線が全通した。これによって東海道新幹線開業の時と同じようなことが鹿児島本線でも起きた。つまり鹿児島本線を走る在来線「つばめ」が全滅したのだ。「有明」も長洲行きとなり本数も激減した。いくつかの観光列車はデビューしたものの、在来線は櫛の歯が抜けたような状態になった。これが当たり前なのだが感情的にはさみしさがつのる。
しかし、それをいうのは鉄道ファンのエゴでしかない。

今、工事中の長崎新幹線でも開業すれば同じような事が起こるであろう。
しかし、長崎に行く新幹線が本当に必要なのだろうか?
今の車両技術であれば在来線でも十分に170㎞ぐらいは出せる。
鳥栖を過ぎれば人口密度が激減する佐賀平野(直線区間が多い)は踏切をなくし高架部分を増やせば制動距離の問題もクリアできるはずだ。
肥前鹿島から先の海岸線をくねって走るルートはトンネルを掘り直線化すれば問題は解決する。
これだけで長崎本線は圧倒的な時間短縮が可能となるはずだ。
新幹線は人口が希薄な区間には必要がない。フリーゲージトレインの構想もあったようだがいつの間にか話題にも上らなくなった。
膨大な費用をかけ新幹線を走らせたがるのは政治家と、ものの本質が解らない公務員、そして地域エゴの塊になっている市町村長(民)である。
猫も杓子も新幹線という考え方はもう古いのではないか?
在来線の改良で十分間に合うところまで走らせる必要はない。
博多・長崎間は想像以上に近い、そこを300㎞で走る必要はさらさらない。
さらに言えば長崎新幹線は果たして黒字になるのであろうか?
赤字を垂れ流した場合誰がその補てんをするのだろう、JR九州にそれを押しつけるのは誘致推進で旗を振った人たちはあまりにも無責任だと言わざるを得ない。
開通した結果かわいそうなのはJR九州だけという結果にはなってほしくないものだ。







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